“ミィ” 泰のビジネスを学ぶ BNK48大久保美織の挑戦【第21回】

 

ミィ:前回は1954年に産業奨励法ができたけれど、ほとんど使われなかった、というお話でした。でも、そもそもなぜこの法律が生まれたのですか?

長谷場:1950年6月に始まった朝鮮戦争が53年7月に終結(休戦)しています。戦争は不幸で悲惨なことなのですが大量のモノを必要とします。タイはゴムやスズを輸出することができたので経済にとっては良い影響があったのです。しかし、朝鮮戦争が終わるとこれらのモノは必要なくなってしまったので、タイの貿易赤字が膨らむようになりました。

ミィ:輸出先がなくなってしまったと・・・

長谷場:貿易赤字を減らすには、「輸入しているモノをタイで製造する」というのが理想的です。さらにタイで生産したものを輸出できれば赤字を減らすだけではなく貿易黒字にできるかもしれませんので。そこで「タイの工業化を進めたい」という考えからこの法律ができた、というのが一つ目の背景です。

ミィ:原料だけではなく、輸出できる物も作ろうということですね。

長谷場:二つ目の背景として、この時期にタイ政府は華僑の同化政策(このことは現在のタイにとって非常に重要なので改めて説明します)を行っていました。「華僑は商売(買ってきたものを売る)をしていて身軽な人が多いので、お金を持って他の国に行ってしまうかもしれない」、という不安がタイ政府にありました。そこで、華僑の方々に「工業を行う(工場を所有する)ことでタイに定着してもらおう」、という考えもあったといわれています。

ミィ:よく中華系って言いますよね。

長谷場:一方で当時のタイ政府は民間に産業を任せるより、政府主導の産業政策をとっていました。1953年から1958年にかけてタバコ、麻袋、セメント、砂糖といった政府系企業が100以上設立されたといわれています。さらに、前回も触れたように、BOIの内規に「外国資本の導入・認可に際しては政府が一定割合の株式を保有すること」という条項があったという話もあり、当初、外国企業の誘致は上手くいかなかったのです。

ミィ:政府に口出しされたら自由にビジネスができなくなる心配がありますからね〜。

長谷場:1950年代後半になると、タイ政府は「政府主導型の工業化政策をやってきたけど、どうやら思ったほど成果が出ていない」ということで路線変更を始めました。

ミィ:産業奨励法は5年間でプロジェクトが6件しか認可されていない状態でしたからね。

長谷場:はい。タイ政府は1959年に入ると政府主導から民間主導の工業化を試みます。その手始めに、59年1月の布告で①民間企業の非国有化、②奨励企業と同種の競合企業の設立を認めない、ということを明記しました。
「『民間企業の国有化』ってそんなことを国がしてしまうのか?」と今では思うのですが、そう宣言しないと不安だった時代みたいです。これらタイ政府の取り組みを後押しした一因として、この時期にとても重要な動きがありました。この件については次回説明します。

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