18年前、飲食店の立ち上げをきっかけにバンコクへ渡った浅本氏。
以来、激戦のタイ日系飲食業界で最前線を走り続け、現在は「隠れ家グループ」の代表として10店舗を経営している。
その卓越した商売感覚のルーツは、幼少期にまで遡る。
「僕、中学生の頃からお小遣いってもらったことないんです」。
大のプロ野球ファンだった少年時代、野球カードショップでサイン入りカードが高値で取引されているのを見て、委託販売のアイデアを思いつく。
トップスター選手のサイン入りカードは、一枚で5,000〜6,000円の稼ぎになることもあり、利益を生み出す仕組みを自然と体得していった。
大学生になると、当時流行していたメールマガジンを活用した懸賞サイトを立ち上げ、広告収入を得るようになる。
その流れで、19歳頃からタイのサプリメントの個人輸入代行を開始。
頻繁にバンコクを訪れるうちに「いつかこの国でビジネスをしたい」という漠然とした憧れを抱くようになった。
大学卒業後、独立を見据えてIT業界へ。
上場を目指す創業社長のもとで、経営者としてのいろはを学ぶつもりで入社したが、ワンマン体質の社風に違和感を覚え半年で退職。
その後、信販会社に転職し、社会人としての基礎を固めていった。
転機が訪れたのは27歳のとき。
取引先の飲食店経営者と意気投合し、和風スパゲティ専門店「甚右衛門」の立ち上げを任されることになったのだ。
1号店は、バンコクで最も勢いのあったMBKセンターに出店。
家賃は高額だったが、“最初のインパクトが肝心”という戦略のもと、あえて大規模な店舗で勝負をかけた。
開店から一年後、経営方針の違いから社長と袂を分かち、店ごと独立。
飲食業は学生時代のアルバイト経験のみという異色の経歴ながら、事業は順調に拡大。
最終的には4店舗目となる「甚右衛門 隠れ家」を残し、他3店舗をタイの投資ファンドグループに売却。
その際、「“甚右衛門”の名称を使用する場合はライセンス料が必要」と告げられ、現在の「隠れ家」への改名を即断した。
順風満帆に思えた矢先、「隠れ家」が漏電による火災で全焼。
しかし、翌月オープン予定で準備を進めていた新店舗の開店時期を前倒しすることで、火災からわずか一週間後にグランドオープンを果たす。
この頃から店舗展開をさらに加速する。
コロナ禍で多くの飲食店が苦境に立たされるなか、破格の条件で好物件を契約できたことも追い風となり、事業は勢いを増していった。
浅本氏の店舗展開の最大の鍵は“人づくり”にある。
日本から腕の立つ料理人をスカウトし、グループ店舗で経験を積ませて将来的な独立を支援する。
「タイで1店舗だけを運営するのは難しい。1/3ずつ株を持って3店舗運営するほうが事業は安定する」と浅本氏は語る。
この考え方の根底には、火災や契約途中の退去命令など、予期せぬトラブルに直面してきた経験がある。
これまで数多くの店舗を手掛けてきた同氏だが、今後は徐々に投資家として比重を高めていく方針だ。
現場を支える人材を育成し、次世代の経営者を輩出することが目標だという。
「飲食業界につきまとう3K(キツい・汚い・危険)のイメージを払拭し、“みんなで稼ぐ”仕組みを実現したい」。
その飾らない語り口の奥には、さまざまな困難を乗り越え、挑戦を重ねてきた18年の軌跡が刻まれている。





