「人生、何が起きるかなんて誰にもわからない」。
平穏な日常を過ごしていると、ふとそんなことが頭をよぎることがある。
もしかしたら、思わぬ出来事に遭遇して、タイドリームを掴めるかもしれない。
杉浦悟朗さんがマネージングディレクター(MD)を務める「TCC TECNICA」は2008年にタイで創業した日系のゼネコン。
工場設備を皮切りに、工場の建設などの事業軸を中心にタイ進出企業を支援し、さらに、タイへの進出のアドバイス業務も行っている。
杉浦さんは1979年、岐阜県生まれ。高校・大学時代は岐阜高専(5年+2年の一貫校)へ入学し、工学を学んだ。
卒業後は立命館大学大学院に合格するも進学はしなかったという。
あてもなく就職活動を始め、とある設計会社に採用され入社することになったそう。
杉浦さんは当時をこう振り返る。
「就職した会社が俗に言うブラック企業で。働いているうちに体調やメンタルの具合が悪くなってしまって、わずか半年で辞めてしまったんです」
それから傷ついた心を癒やす“傷心旅行”としてタイへ足を踏み入れる。
2003年、杉浦さんとタイとの出会いだった。
「もともとは1年くらいで戻るつもりだった」と話すが、渡タイ後は友人のツテを頼って、ルンピニナイトバザール(現在は閉鎖)にシルバーショップを開くことに。
2m×2mほどの小さな店だったというが、図らずもそこで運命的な出会いが訪れる。杉浦さんのシルバーショップの斜め向かいのお店で働いていたコラート出身のタイ人女性(のちの奥様)と恋に落ち、結婚することになる。
順調な滑り出しかと思った矢先、SARS(サーズ:重症急性呼吸器症候群)が大流行してしまい、バザールは閉鎖。
もちろん、杉浦さんのお店も営業できなくなってしまったのだ。
「もう日本に帰ろう」と失意の中、偶然日本人の方と知り合ったことがきっかけで、今度は学習塾の講師として働くことになった。
それから3〜4年ほど働いたのち、(TCC TECNICA)の前身の会社の求人を見つけ、すぐに電話をかけた。
創業者との電話で「岐阜高専を卒業しました」と伝えただけで、杉浦さんは即採用となった。
それは2007年、28歳の時だった。
その後、2008年のリーマン・ショック、2011年の大洪水と災難が相次ぎ、さらには当時の創業者が前身の会社を売却したため関係が悪化し転職。
転職後も「戻ってきてほしい」と何度もオファーを受けるも固辞。
ただ時間だけが過ぎていったがようやく終止符が打たれる。
2012年、杉浦さんが株の過半数の獲得を条件に、「TCC TECNICA」の社長(MD)に就任する。
社長就任後、大型の受注が次々と決まったことを皮切りに、業績はうなぎのぼり。
現在、タイ国内にはバンコク、シラチャーをはじめ6拠点あり、従業員数は700人以上を超える企業に成長。
また、杉浦さんの発案で始まった「仏像寄付」という社会活動。
同社では活躍の場である“タイ”という国への恩返しの意味を込めて、仏像寄付などの社会貢献活動にも力を入れていることのひとつだと語ってくれた。
最後に「杉浦さんにとってタイとは」と聞いてみた。
「タイに来て23年。きっとこれからの僕の人生はタイとともにあります。初心・感謝の気持ちを忘れずに、今後もタイに貢献していきたいですね」。





