JICA(国際協力機構)

日本の援助活動のアナザーストーリーを伝えるのが役目
ICAタイ事務所 所長 
池田 修一

《プロフィール》 1961年生まれ。山口県出身。85年筑波大学大学院修了。85年よりJICA。2013年5月JICAタイ事務所長に就任。現在に至る。 2015年末のAEC(ASEAN経済共同体)の発足時には、“陸のASEAN”(2.5億人市場)の中心を担うであろうタイ。そのためにも、直面する“中進国の罠”からの脱却は喫緊の課題だ。そこで必要となる支援とは―。池田修一JICAタイ事務所長に、インタビューした。(2015年7月現在)
 

日本の援助活動のアナザーストーリーを伝えるのが役目です

—ICAのタイでの活動は歴史が深いと聞きました

1954年に日本の政府開発援助(ODA)が開始され、最初の案件としてタイから21名の技術研修員を日本に受け入れたのがはじまりです。それから60年が経過しました。援助開始後、70年代後半からは資金協力も始め、徐々に援助額も増加。それとともに、援助対象分野も広がり、道路、橋梁、港湾、空港、電力などの産業インフラから、農業開発用の施設、上下水道といった生活インフラに至ります。 そして、80年代後半から90年代前半にかけて、経済インフラの更なる整備に多額の有償資金協力を行い、85年のプラザ合意後に、日系企業がタイ進出を進めた際の土台作りへと役割をシフトしました。また併せて多くの技術協力と無償資金協力も人材育成や行政・教育機関等の整備や組織強化に重要な役割を果たしてきたわけです。

—JICAの役割も変わりつつあるようですね

仰るとおりです。ご存知のようにすでにタイには、多くの日系民間企業が進出し、ローカル企業も成長しています。つまり、それまでのODAによるものから民間活力による経済開発や成長が中心の時代となりました。そうしたなかで、JICAの役割も変わりつつあります。ひとつは、日本とタイのノウハウの再活用です。これまで60年にわたって技術や社会制度に至るあらゆる分野で、タイは日本のモデルを吸収し、タイ風にアレンジしてきました。そこで今度は、周辺国から、日本ではなく、距離的にも風土的にも近いタイに研修に来てもらい、JICA(日本)とタイ政府が一緒になって、他国への技術・制度的な協力を行っています。 例えば観光分野においては、タイは日本以上の観光立国です。そこを学びたいと、他国にあるJICA事務所に相談が寄せられています。これらの国をタイに招聘し、タイで学べるよう仲介する役割も担っています。いわば、タイが他国にとっての日本とタイの協力成果の“ショーウインドウ”の役割を果たしているんです。

そして、もうひとつが、日本のインフラ輸出です。これまでは、基礎インフラ整備への協力が主でしたが、今度は、もっと完成度の高いインフラ(新幹線や都市鉄道)をパッケージでタイに根付かせる協力です。例えば、AECが発足すれば、約6億人(陸ASEANは2.5億人)のマーケットができあがります。そのため、今まで以上の高度な交通インフラが必要となり、そこに日本の新幹線技術が生かせるわけです。そのための資金協力が必要になるでしょう。



—こうした流れは想定内だったのですか

JICAの援助活動で、タイは、ある程度のレベルアップを果たしました。それが呼び水となり、多くの日系企業の進出へとつながり、AEC発足といった新時代の到来で、日本とタイが真のパートナーとして、想定外の援助・支援活動の手法が生まれているのだと思います。

—ニーズが細分化され、逆に役割が増えたということですね

ひとつに、タイは新たな課題に直面しつつあります。例えばタイは、日本よりも高齢化社会から高齢社会(高齢人口が14%以上)への移行が早いと予想されています。つまりは開発途上国から完全に卒業する前に、この課題に直面するわけです。これは、他の途上国が将来直面するであろう課題でもあります。日本が経験し得なかったことを克服するための協力が必要となり、まさにパートナーとして取り組まなくてはいけません。

—海外赴任が長いと聞きました

タイに来て2年が経ちました。住みやすさは誰もが知るところだと思います。私にとっては、4回目の海外赴任となっています。最初は、ビルマ(現ミャンマー)で、その後、米国、ラオスと続き現在に至ります。

—思い出深い出来事も多かったのではないでしょうか

では多くの経験をさせていただきました。初の海外出張が1985年に来たタイでした。ソンクラー県の水産養殖研究所への技術協力の評価をするためです。そこでは当時、ハタとアカメの養殖研究を進めていたのですが、結果的に十分な成功とは言えませんでした。ところが、数十年ぶりに訪れたタイでは、最先端の高度な研究協力が日本の大学・研究機関と実施されるようになっていました。当時は失敗に終わったのですが、その研究が脈々と続いていたのです。 あとは、88年のミャンマーのクーデターの際は、目の前で銃撃戦が行われるなど、無政府状態のような状況でした。普通では体験できない出来事や、海外での多くの再会もあり、JICAで働くことができて本当によかったと思っています。
 

編集後記

「役割は、日本が残した成果を物語として伝えることです」と話す池田所長。ラオスで出会ったある農業局長から、『僕はJICAのファンだ』と幼い頃に故郷の村でJICA職員に世話になった思い出話を聞いたという。“日本経済が厳しい時代に”とODAへの批判もある。しかし、民間企業でも、自分ばかり儲けるのであれば嫌われる。だから、CSR(企業の社会的責任)活動を行う。日本人として、先ずは自国の行動をきちんと理解した上で、話題の遡上に乗せたい。(北川 宏)

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