WOOD BALL 店主
後藤俊行さん
「WOOD BALL」店主。1975年、静岡生まれ。29歳の時にはじめてタイを訪れたことがきっかけでタイへ移住。在タイ歴は今年で21年目を迎える。現在はWOOD BALL、おでん青葉、深夜食堂の他、複数の飲食店を展開。また、2014年に設立した静岡県人会の会長も務める。
文 菊地葉月

「自分が行きたいお店があったらいいなと思って、WOOD BALLを作ったんです」。
そう話すのは、カラオケバー「WOOD BALL」店主のとっぴーこと後藤俊行さんだ。

後藤さんは静岡県出身。
高校までは静岡で過ごし、大学から石川県金沢市へ行き、金沢ではバーを8年間も経営したのだとか。
そのあと後藤さんは竪町(たてまち)にある商業ビルの4階でアジア風の小物などを取り扱う雑貨屋を経営することになり、商品の仕入れ先としてタイと日本を往復する日々が始まったという。

売上も好調だった矢先、入居しているビルの耐震強度問題により、立ち退きを余儀なくされてしまう。
ビルの建て替えは1年かかると聞かされ、後藤さんは「せっかくの機会だし、タイに住んでみよう」とタイ行きを決めたそう。
それは2004年のことだった。「もともとは(竪町の)ビルの建て替え工事が終わる間の1年間だけタイに居ようと思っていたんです」。

そんな中、知り合いのツテで手伝い始めた旅行会社の仕事が思いのほかに面白かったことから、本格的にタイに腰を据えて働くことになる。
ところが、順調だった旅行会社の仕事が思うように事が進まなくなり、会社の社長からは「何かやりたいことがあるなら、出資するよ」と提案されたという。

どうしたものかと考えた末、自身も日本でバーを経営した経験があることから、“自分が行きたいと思う店をバンコクに作ろう”と決意。
前出の社長にも出店費用を協力してもらい、2009年の5月、シーロムに「WOOD BALL」1号店(現在は閉店)をオープンする。
この頃のバンコクには日本人が気軽に通える店が少なかったこともあり、「オープン後は日本人客で連日大賑わいだった」と当時を振り返る。

ちょうどこの頃、バンコクでは反政府デモが激化し、店のあるシーロム周辺にまでデモが拡大。
「反政府デモが起きた時は、シーロムで営業している店なんてほとんどなくて。それでもうちは営業を続けていました。そしたら、日本のテレビ局や報道記者たちの待機場(たまり場)みたいになっていって。でも、今となっては忘れられない思い出です」。

それからしばらくの間は旅行会社の仕事とバーの仕事の二足のわらじ生活が続いたというが、最終的には旅行会社を退職。
それからというもの、後藤さんは飲食店の経営に注力し、現在はWOOD BALLをはじめタイで複数の飲食店を展開している。

さらに後藤さんは地元・静岡への愛情も話してくれた。
「静岡に帰るたびに必ずおでん横丁に行っていました。小さい店内だけどほっと一息つける雰囲気。だから将来は絶対バンコクでも静岡おでんのお店を開きたいと思っていました」。

念願叶ってオープンした「おでん青葉」だったが、当時はコロナ禍真っ只中。
「デモや洪水など色々な苦労を経験してきましたが、コロナ以上にしんどいことはなかったですね。本当に大変でした」。

タイは飲食店の営業が禁止されていたため、おでんのデリバリーからスタートさせ、人を入れての営業が再開できるまでなんとか持ち堪え、コロナ禍を乗り切ったという。

飲食店の経営の他、静岡県人会(さわやか会)の会長も務める後藤さん。
「静岡県人会作ってよ」とお客さんから言われたことがきっかけで始まり、今年で11年目を迎える。
県人会からの輪が広がって、新しい出会いや仕事につながり、“県人会”という場所を大切にしていると話してくれた。

最後に後藤さんが感じる“タイの魅力”を聞いてみた。
「うーん」としばらく頭を悩ませた末に「何でもチャレンジできるところかな」とさわやかな笑顔で答えてくれた。

WOOD BALL

バンコクのバーの先駆け的なお店。生ビールやカクテルにこだわり、美味しいお酒と一緒に楽しい時間を提供している。現在はバンコクに3店舗(プロンポン・トンロー・タニヤ)、パタヤ、シラチャの5店舗を展開。

おでん青葉

2020年5月にオープン。静岡のおでん横丁をイメージしたこじんまりとした雰囲気。黒いスープと黒はんぺんが特徴の静岡おでんや、浜松餃子、富士宮やきそばといった静岡の郷土料理が味わえる他、静岡の地酒も揃う。

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